Another Tempest

30代男性の管理人が、さまざまな物事について勝手気ままなことを語るブログです

人間は深い絶望から這い上がれるものだろうか、後編

 

こんにちは。前回の続きです。

 

人は、本当に打ちのめされて隙のない絶望を経験すると、それが骨の髄まで沁みわたり、ある意味では一生かけても拭えない不信感が、芯の部分に残ります。澱のように溜まるのではなく、言うなれば構造そのものを変えてしまうのです。

一度そういう現実を知ってしまうと、ものの見方が変わってしまい、物事を素直に受け取れなくなるんです。

そして途端に日常生活で支障をきたし、あらゆる出来事が一筋縄ではいかなくなります。何をやっても上手くいかない。行動を起こすたびに状況が悪化していくよう。まるで世の中が自分を陥れようと画策しているみたいに感じることもある……。

手のひらを返したように、世界が一変してしまうわけです。

 

いうまでもなく、そこから脱け出すのは容易ではありません。

僕自身はそのジレンマに苛まれる状況から、実に6年近くもの間、ほとんど身動きが取れませんでした。ずっと試行錯誤して、なんとか現状を打破する方法を探りながら、数え切れない失敗を繰り返してきたんです。自ら命を絶つことを考えたのも、一度や二度じゃありません。でも今こうして、かろうじて生き延びています。

 

前々回くらいの記事でも書いたんですが、結局のところ、人が真っ当に世の中を生きる上で必要なものは、己に対する信頼に他なりません(たぶん)。

つまり、自信さえあれば、どんなにつまずく出来事があっても、なんだかんだで乗り越えていけると思うんです。

だけど、そういうものを最初から得ている人もいれば、そうでない人もいます。いわゆる自己肯定感というやつですね。一説によれば、これは幼少期の教育環境が関係しているとも言われいますが……。

しかし、大人になってからそんなことを堂々告げられても、どうにもできません。今更誰が面倒を見てくれるわけでもないし、現在の自分がどうにかするしかないから。

 

物の分別がついた大人が、確かな自信を得ようとすれば、それは付け焼き刃では成り立たないでしょう。

抽象的な意見を並べたてて、中途半端な行為をくりかえしても、何も変わりません。もっと具体的かつ理にかなった行動を起こすことが大事だから。そうしないと、不毛な現実はいつまで経っても地続きのままです。

けれどもそのためには、ものすごく勇気が要ります。いくらか傷つき、自分を犠牲にしなければならないから。頭でわかっていても、正しい道を行くことは実際、非常に困難なのです。挑戦と失敗を幾度も重ねてみて、はじめて価値のある答えが見えたりするものだから。

 

また、人はそれぞれ違った性質を持っていて、生まれつき授かった才能も異なります。

一方で簡単そうに物事をこなす人がいれば、その何倍も苦労して同じことをやり遂げなくてはならない人がいる。人は強さも弱さも両方持ち合わせている生き物ですが、その比重の傾き具合も当然ちがう。時期によっても変わってきますし。

だから、各々が抱える問題を解決する速度やタイミングなんかも違ってくるのです。あくまで自分のペースで前に進んでいくのがいいと、僕個人は思いますが……。

 

己に対する信頼を得て、前向きに現実を変えていくには、兎にも角にもまず自分自身を知ることから始めなくてはなりません。

自分という人間がどういう性質を持つのか。性格、長所や短所、向き不向き、その他の雑多な特徴……。個性を呼べる側面について。

その上で、やりたい事・やらなくてはならない事・またやるべきではない事を把握して、改革を進めていくのがいいのでは、と僕は考えています。

 

なにしろ、我々は結局のところ、どう足掻いても他の誰かにはなれません。一生懸命に他人になりすまして、そのポーズが板についたとしても、最後には自分自身を思い知らされることになります。決して誤魔化せないんです。それを早くから悟ることが、けっこう重要なのではないかという気もしますね。

自分が自分のまま、前向きに現実を進めていくこと。より良い未来に近づけるようにすること。それを念頭に置いておかなくてはならない。

 

……なんだか長々と御託を並べましたが、これら全て、常日頃から自身に言い聞かせていることです。

僕は未だ発展途上で、真っ当な人生を歩むために日々努力中です。

 

では、また

 

 

人間は深い絶望から這い上がれるものだろうか、前編

 

こんにちは。連日の更新です。

 

長い間、自問自答してきたことが一つ、あります。

それは、『人間は深い絶望から這い上がれるものだろうか』ということです。

これはまさに死活問題で、率直にいえば、そこで倒れ伏したまま立ち上がれなかった人が、自死を遂げてしまったりするわけですよね。

 

では、再起できた人とできなかった人との違いとは一体なんなのか?

 

僕個人としては、その人が恵まれた境遇であったかどうか、というのはあまり重要でない気がしていて(前回の記事でも似たようなことを書きましたが)。

例えば、必要な手助けをしてくれる人間が近くにいたかとか、新たな一歩を踏み出すための好機がちゃんと訪れたかとか。そういう意味では、運自体に関係があるのかもしれませんが。

でも、たとえそういう機会に恵まれていても、それらを逃しつづけて、ずっと踏み出せないままの人もいます。いくらチャンスがあっても、肝心の勇気が出なかったりして。

反対に、誰の手助けもなく自力で苦境を乗り越えていく人もいます。

 

思うに、人間というのは、ある程度はあらかじめ前向きに考える能力が備わっているものではないでしょうか。性格的な部分で。

どんなに堕落した現状に落ち着いている人でも、どこかで「このままではいけない」と悶々とした気持ちを抱いていることが多いです。ただ、そこから一歩踏み出すための力がなかなか湧いてこないだけで。

それと同時に、やはりもう個人の力ではどうにもならないくらい厳しい現実に直面してしまう人もいて、そういう理不尽に対して我々が抗えないところは、人生の不条理としか言いようがありません……。病気や事故で亡くなった方や、戦争に巻き込まれて死んでいった人たちもそうでしょう。

 

話を最初に戻して。

 

僕は今現在、まだ這い上がれていない状態なので、その為に何が必要かということをいまいち理解できていませんが……。その都度、答えを出して前進しようと試みてはいます。

色々あって、深い絶望を味わう経験はしました。

人間が嫌いになり、自分が嫌いになり、この世の中や、生きること自体にうんざりして。そこに不運が重なって、ほんとうに完膚なきまでに打ちのめされました。

いまもその無力感は消えていません。

 

……なんだか話が長くなりそうなので、ここら辺で一旦区切りますね。

また続きを書きます。

 

当初はもっと楽しい記事を書いていこうと考えていたんですが、いつの間にか内省的な文章ばかりになってきていますね……。まぁ、そういう時期なのかもしれません。

 

では、また。

 

またしても雑記 / 垂れ流す思考

 

こんにちは。

 

前回の記事で、この歳(32)になってみて、過去に想像していたよりも実際の未来はずいぶん違ったところにいる、というようなことを書きました。まぁ、多くは悪い意味を込めて、ですが……。

 

社会的地位のなさは別にしても、何より自分で考えている以上に己が無知である気がすることに危機感を覚えて、地理学・医学・法学・社会学・経済学・政治・哲学・心理学・自然科学に至るまで、途端にそろそろと自習しはじめました。合間をぬってちょこちょこ取り組む程度ですが。こういうとき、図書館は便利ですね。

真の知性が知識量に比例するとは思いませんが、でもあるに越したことはないはず……と、やる気のあるうちに学ぼうとしている次第です。果たしてそれが付け焼き刃に終わらないことを祈るばかり。

 

僕は以前まで、都会で生活しながら管理職の仕事に就いていたんですが、現在は求職中の身で、故郷の田舎で製造業を中心に捜しています。

いろいろと事情があって、ブランクが長くなってしまったもので、悪戦苦闘していますが、どうにかして活路を見出そうと頭を悩ませています……(体も動かそうよ、と内なる声が聞こえてきます)。

とにかく社会経験が薄まって、何をするにも勘が掴めなくなっている状態なので、早いうちに踏み出さなくてはなりません。時は金なり。

 

そんな中で、人が生きていく上で最も大切なものは何か、と問われたら、一体どれを挙げるかなぁと考えてみました。

でも結局、この世の中をまともに生き抜くために必要なものといえば、自信があるかないか、に落ち着くように思えます。

じゃあ、それを得るためにはどうしたらいいのか?

もちろん才能の有無や、生まれ持った境遇なんかも関係するのでしょう。だけど実際のところ、いかに恵まれているかどうかはあまり問題といえないような気もします。

それよりも、個人的におもう本物の自信というのは、少なくとも一人の人間として自立できているかどうか、が重要になってくる気がします。精神的にも、肉体的にも。

それは、自己の存在を完全に独立したものとして受け止められているか、です。つまり、自分の頭で考え、判断して、行動できているかいないか。

自立した大人の社会人として生きていく時には、必然的に相応の責任が生じます。なぜなら、すでに親の保護を受けられる子供でなく、他の誰かが面倒を見てくれるわけでもないからです。

そこにはかなりシビアな苦難が待ち受けているはずで、我が身に降りかかる数多の問題を、なるべく自らで解決しながら前進していけるかどうか。それこそが本物の自信につながると思うのです。そういう人は、どんなに厳しい道のりを歩んでも、おのずと成長していけるような気がします。

単純な話、自分は一人でも生きていける、という自覚を持っている人は、たいていのことには動じない精神力が宿っているように見えますよね。そして、そこには確固たる根拠がある。他人をアテにしなくても、自分自身を頼りにできているからいい、という具合に。

 

僕も常々、そういう大人を志しているはずなんですが……。なかなか上手くいかないのが現実です。日々、少しずつでも成長していけたらいいんですが。

 

では、この辺で。

 

P.S

最近、読んでいる本は、小林秀雄岡潔による対談集『人間の建設』です。

あとは震災関連のもの。

 

近況報告 / 雑記

 

こんにちは。前回からずいぶんと日にちが空いてしまいました。

 

というのも、環境が変わったり、いろいろと状況が慌ただしくなって、こういうものを書く暇がほとんどなかったので……むしろ思いつきさえしませんでした。

 

そうした期間のうちに、かなり精神的にすり減ったような気がしていますが。

多くの人たちと同じように、その大元となる原因は、仕事と恋愛による問題です。

 

私は現在32歳で独身なんですが、この年齢というと、勤めている会社でそれなりにキャリアを積んでいて、結婚して子どもがいる家庭持ちで、ある程度の社会的地位があって……というイメージを、少なくとも今よりもっと若い頃は抱いていました。けれど実際の現実は、まったく安定の「あ」の字もない予想とは程遠い未来にいて、人間的には少しくらい成長したのかもしれませんが、二十代となんら変わらない暮らしぶりです。なんとも言えないやるせなさがフツフツと湧いてきます。私はいったい何がしたいんだろうか、どういう結末を望んでいるのだろうか……? と。

 

でも時代の移ろいを見ると、たとえば昔に比べて、自分と似たような状況にいる人はたくさんいるのかもしれないとも思います。漠然と。路頭に迷って、うまく居場所を見つけられずにいるというか。溢れかえる情報量の影響か、はたまた教育の違いが生んだものか。自己を見失いがちな現代人……というと大袈裟に聞こえますが、そのすべてを個人の問題と言い切るには腑に落ちない部分もあります。

 

私はまだ10代だった時から、もし人間がこの世に生まれてきた意味があるとすれば、それは持てる才能を最大限に活かして人生を謳歌することだろうと結論づけてきました。ある時点までは。いつからかその単純明快だった答えは、雲行きが怪しくなって撤回しようかしまいかの瀬戸際に立たされるようになり、いまでは「人の一生というのは、もっと複雑で奇妙な代物なんだ。一筋縄ではいかない、説明のつかないことが平気で起こりうるんだ」と思っている次第です。

たしかに人の命というのは、与えられた時間のことだと言い換えることもできます。その間に何をするかはそれぞれ異なる。つまり重要なのは、使い方なのだと。

だけど、どうも人生はそんなにスムーズに扱えるようなものじゃないらしいです。不条理、と一言で済ませてしまえばそれまでですが。

 

最終的に何が言いたいのかよくわからない、支離滅裂な内容になってきてますが……とにかく、やるべきことはきちんとやらねばならないと近頃は身にしみて感じておりますので、まずは仕事に精を出すことでしょうね。私なんぞは。

そこそこ健康が維持できていて、規則正しい生活を送っていれば、だいたいのことはなんとかなるものだと勝手に思っていますので。

 

あれこれと悩むのもいいですが、できるだけ早く行動に移して、物事を前進させなくては。元来、怠け者の性分ですから。

ではまた

 

ボブ・ディランについて

 

  こんにちは。

 

 去年にノーベル文学賞の受賞が決定したミュージシャンのボブ・ディランが、来る3月31日にニュー・アルバムをリリースするそうで、その新作『トリプリケート』についての長文インタビューがソニー・ミュージックの公式サイトに掲載されています(全文翻訳)。ファンの方は必読です。

 つい先日には、ツアー先のストックホルムスウェーデン・アカデミーからメダルと証書を授与されたと報道されていました。

 

 ボブ・ディラン 新作アルバム『トリプリケート』についてのインタビュー

 http://www.sonymusic.co.jp/artist/BobDylan/page/interview_1703

 

 御年75歳になるはずですが、ポール・マッカートニーにしろストーンズのミック&キースにしろ、未だに現役であり続けていることにもはや畏怖の念を感じますね。海外のロックスターたちは一体どういう肉体構造をしているんでしょうか。不思議でなりません。私は今30歳なのですが、45年後の自分を想像してみても、とてもじゃないけど彼らのようなバイタリティが残っているとは思えません……。

 そもそも芸術家という人種が、常人の域をはるかに超えた無尽蔵のエネルギーを内に秘めているとしても、さんざん歌って演奏して酷使してきたカラダなのだから、多少なりとも悲鳴をあげているはずだと予測するのは普通ですよね。もちろん健康管理や身体能力を維持するために専属トレーナーが付いていたりするのでしょうが。生まれつき強靭な肉体を授かっていることもあるのでしょうか。だとしたら羨ましいとしか言いようがありません。体を壊すことほど、苦痛なこともありませんからね。個人的にはどういう生活を送っているのか、健康の観点から教えてもらいたいです。でも、音楽は人を若々しくする力があるんだろうなとも思いますが。

 

 ボブ・ディランの新作については、インタビューを読むかぎり、どうも前作『フォールン・エンジェルズ』、前々作『シャドウズ・イン・ザ・ナイト』と連なるトラディショナル・スタンダード・ナンバーのカバー作品となるようです。しかも3枚組という特大ボリューム。ディラン曰く、テーマが同じなのでまとめてリリースしたかったらしいです。収録されているのは、主にフランク・シナトラがレパートリーとしていた定番中の定番といわれる楽曲。「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」や「センチメンタル・ジャーニー」、「スターダスト」など。全30曲を、ディスク1枚につき10曲収めた形となる様子。私も暇を見つけて聴いてみようと思います。

 

 それで、ノーベル文学賞やら新作の発表やらが重なった折もあって、私は久しぶりにボブ・ディランの伝記映画『ノー・ディレクション・ホーム』を鑑賞しなおしてみました。これは収録4時間というとてつもなく長尺なムービーなのですが、夜な夜な一人お酒を嗜みながら、時間を分けて観ました。過去の映像を交えながら、彼のキャリアにおける人間関係についても知り得るので、ファンにとっては非常に興味深い映画です。そしてこれを観ながら、私は淡々とボブ・ディランとの邂逅などを振り返ったりしていました。

 

 私がディランの音楽と出会ったのは、およそ17年前の中学1年生のときです。隣県に住む叔父の家に家族で訪ねた際に、勝手に自室に忍びこんでCD棚を漁り、そこから『フリーホイーリン』のアルバムを抜き取って持ち帰ったのがきっかけです(完全に泥棒ですが、のちに叔父は笑って許しそのアルバムを私にくれました)。
 幸いにも、そのアルバムにはライナーノーツや邦訳された歌詞が細かく記載されていたので、当時は洋楽に馴染みのなかった私もめずらしいものを発見した喜びで、好奇心の赴くまま未知の領域を開拓するごとく、食い入るようにそれらを読み込みました。
 初めて聴いたディランの歌は、とにかく凍えるような印象。まるで冬の日の道端や地下道で日銭を稼ごうと路上ライブをする彼の姿がみえるような……ただただ孤独で、なおかつ真実に限りなく近い何かが宿っていると匂わされる響きが感じ取れました。あらゆる装飾を削ぎ落としたような素朴さで、かつ気高く、音は温かいのに張りつめたような空気を持っている。綴られた歌詞の意味を理解するのは難しかったけど、彼の鳴らす音楽の意味を(その片鱗を担う一端でも)直感的に悟ったような気がしていました。このミュージシャンは人生そのものを、それも嘘偽りのない眼で見つめた率直な感想を語っているのだろうと。それはどこにも属せない、孤高の存在であることを示しているようでもありました。
 そして私はじきに自らもアコースティック・ギターを始めることになり、自作曲をつくったり歌詞を書くようになりました。同級生の友人らとバンドを組んで、地元の公民館で小規模のライブをしたりもしましたね。もちろん、ある日には単独で路上に出て木枯らしを得意げに浴びながら、お粗末な演奏を披露したりもしました(長い歳月を経てオリジナル曲を録音したテープが発掘されたときは、まさに赤面ものです)。
 それから私は肌寒い季節になると思い出したようにディランの歌を聴くようになりましたが、成人してからしばらく遠ざかって(なぜか一時期、彼の声が受け付けなくなった経験もしました)、25歳を過ぎたあたりからまたちょくちょく耳を傾けるようになりました。そして何時ぞやに、ぐうぜん深夜に放送していた『ノー・ディレクション・ホーム』の映画を観ました。そこで初めて、しっかりと実際に演奏して語る彼の姿を映像で目のあたりにして、もの凄くこみ上げてくるものがありました。彼はいつも真剣で、それは音楽に対する以前に人生に対しての姿勢であり、生まれ持った天性の資質とタフネスであり、まぎれもない孤高の人・ミュージシャンでした。想像以上の人物にうつり、私は素直に感動しましたね。

 

 ボブ・ディランは、現在37枚ものオリジナル・スタジオアルバムを発表しているわけですが、あらためてその中でいちばんのお勧めを選んでみようかとも考えてみましたが、とてもじゃないけど出来ませんでした。37個もある選択肢の中から1つを選出するというのが、ちょっと無理な話です(ひとつひとつの内容が充実しすぎていますから)。
 またその時々によって好みが変わるので、これがマスターピースだというものを断定することが困難なんですよね。でも今の自分が人に勧めるなら、『追憶のハイウェイ61』か『ナッシュヴィルスカイライン』でしょうか。もちろん『フリーホイーリン』もいいです。『欲望』も好きですけど……とキリがないのでここら止めておきます。

 

 それでは、また。

 

映画『ガンジー』レヴュー

 

 

 

 

 ガンジーは1982年に全米公開された(日本は翌年公開)イギリスとインドによる合作映画です。第55回アカデミー賞作品賞を受賞しております。
 少々古めですが、なかなか充実した見ごたえのある映画で、なにしろ上映時間が3時間という……。私は大の映画好きですが、それでも2時間半を超えてくると大抵は集中力が途切れてくるので、一旦休憩を入れたりしなくてはならなくなります(もちろん自宅で鑑賞している場合に限りますが)。
 映画の内容は関係なくて、ほとんど生理現象なのでどうしようもない。
 


 さて肝心の内容ですが、その名を知らぬ人はいないであろう、インド独立の父と呼ばれる宗教家・政治指導者であるマハトマ・ガンディーの自伝的映画となっています。彼が弁護士だった青年時代から、偉大な指導者となって暗殺されるまでを描いたものです。

 

 いわゆる歴史映画なので、エンターテインメント的な側面はほぼ皆無ですが、波乱に満ちた人生を凝縮したストーリーになっているために、ちょっと見逃すと話の筋を見失ってしまうようなスピード感があります。場面場面の移り変わりは緩やかに感じられながらも、何気に展開は早いので、だれることなく観られるのではないでしょうか。
 その激動の時代を余すことなく詰め込んでいるせいか、もの凄い勢いでガンジーは歳をとり、なにやら悟りを開いていったかのような錯覚に陥りますが、おそらくだいぶん省略してこのペースなんでしょう。
 


 やはり扱っているテーマが重いので、一難去ってはまた一難といった具合に勃発する政治的な問題に伴い、知的な(ややこしい)会話がひっきりなしに交わされ、聞き逃したりしているといつの間にか議題がすり替わっていたりします。でも印象的なセリフが多く、言葉のやり取りを聞いていて単純に面白いし、教訓として学ぶところもあります。とにかく、いろいろと考えさせられる映画です。
 


 また、合間に映し出される風景がとても美しいです。とくにガンジーがインド全土を列車で旅している場面は印象的。つかの間の休息を表すように、セリフのない穏やかな映像が淡々と流れます。
 ガンジー役を演じた主演俳優のベン・キングズレーの風貌があまりに本人と酷似しているせいもあって、あたかもドキュメンタリーを観ているかのように勘違いしそうにもなりますが(実際、現地の住民たちの多くは「ガンジーが生き返った」と思い込んで、彼の元に参拝に訪れたりしたそうです)。
 当時のガンジーが、自分の知り得なかった国の実情を前に、いかにして心を痛め頭を悩ませていたか想像させられます。


 
 私が思うに、エンターテインメント作品としては観られないけれど、たとえばガンジーのことをよく知らない人が興味本位で観ても、けっこう楽しめる内容ではないかという気がします。なんとなく歴史を学んでおきたいという姿勢の人でも。
 かくいう私もマハトマ・ガンディーという人物に関してそこまで詳しくなかったのですが、これを観て深い感銘を受け、あらためて彼の著書を熱心に読み漁ってみるまでに至りました。『獄中からの手紙(岩波文庫)』ガンジー自伝(中公文庫)』などを。
 またそれ以来「非暴力」の本当の意味や意義についても、よく考えるようになりました。
 


 それから30年以上前の映画なのにもかかわらず、映像がちっとも古く感じません(少なくとも私にとっては)。この映画をいかに大事にして、伝えたいものがあるからこそ、なるべくクオリティの高い映像で撮ろうという、監督を含む撮影人の意気込みをまさに反映しているようです。
 余談ですが、この映画はエキストラを30万人も動員しており、それは最多記録としてギネス・ワールド・レコーズに認定されたそうです。凄いですね。
 福岡県久留米市岩手県盛岡市の人口がだいたいそれくらいみたいです。ちょっとイメージ湧きにくいですが。


 
 やみくもに理性を見失いつつある、きわめて暴力的な混乱の最中にある現代でこそ、観て響くものがある映画ではないかとも思います。
 時代を超えて、なぜ人や国がこうも躍起になって争い合わねばならないのか、またその時に自分はどういう態度を示すべきなのか。そうやって自分を見つめ直すきっかけにもなります。
 ぜひとも、一人で時間をかけてじっくりとご鑑賞ください。私はときどきこの映画やガンジーの著書を思い出しては、かつてはこんな人もいたんだ、と振り返るようにしています。自分にとっての正しさを省みるための勇気が得られるように。

 

 

 

 

 

英作家ジェーン・オースティンにまつわるニュース

 

 先日、ネットニュースをチェックしていたら、こんな記事が目に入ってきました。
 


 英作家ジェーン・オースティン、結婚を2度偽装か
 

www.jiji.com

 


 これはイギリスの近代文学を代表する女性作家のひとり、ジェーン・オースティンが没後200年ということで、そのイベントの一環として、イングランド南岸にあるハンプシャー州の公文書館が、作家自筆の「偽の婚姻届」2通を公開するという内容のものなんですが。まあ、婚姻届の偽装といっても、オースティンがまだ十代の少女だった頃のことらしいですけど。いたずら好きだった一面を知ることができると。お茶目ですね。
 


 作家にまつわるこういうニュースをときどき目にする度、なんだかほっこりした気分になります。
 たまに過去の醜態をさらすようなものもあって、わざわざそんな事実を掘り下げなくても……なんてモヤモヤした気持ちになることもありますが。(中島らも大麻取締法違反で逮捕されたときも、同じような印象を持ちました)
 去年だかに、高校時代の村上春樹による図書カードの貸し出し記録が発見されたと話題になりましたね。ちょっとした問題というか。


 
 でもジェーン・オースティンに関するニュースは初めて見たので、思わず、おおっ、と唸ってしまいました。私はもちろん彼女のファンです。『高慢と偏見』や『エマ』、『マンスフィールド・パーク』など素敵な小説が沢山ありますよね。


 
 これまで似たようなニュースでいちばん面白かったのは、なんだったかな……と振り返ってみたんですが、結局うまく思い出せませんでした。残念。サリンジャーとかガルシア・マルケスの訃報が届いた時のショックは思い出せるんですが。ギュンター・グラスとか。なぜ人は悪い時のことばかりを憶えているんでしょうか。不憫な生き物です。
 


 全然関係ないですが、作家に関する小話の中でこういうものがあります。ノーベル文学賞を受賞したアメリカの作家、ウィリアム・フォークナーに関するものです。
 彼はノーベル文学賞の授賞式の時に娘のジルを連れて出席し、素晴らしい演説を行なって拍手喝采を浴びた、と人びとには鮮やかに記憶されているんですが、でも実際の事実は少し違っていて、本当は授賞式に行きたくなくて泥酔していた彼を、娘が無理やりに引っ張っていったらしいです。
 偉大な作家であるのに、なんだか子どもっぽいところもあって、人間味が感じられていいなと思いますよね。また、それにもかかわらず、嫌々ながらも行なったはずの演説が素晴らしい内容になっているんですから、大したものです(なんだかんだいって、ちゃんと用意していたんでしょうけどね)。
 


 それでは、また。